高山神社の歴史

春には満開の藤が美しく咲き誇っております

地元や県内外の有志が神社の創建の願いを政府に出願されたことで、明治11(1878)年には高山彦九朗に正四位が追贈され、社殿創建・社号公称願いが許可されました。創建から学業成就と国家安泰、家内安全などの信仰があります。

御祭神 高山彦九郎とは?

高山彦九郎は、延享4年(1747年)5月8日上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市細谷町)に農家の次男として生まれました。名は正之。通称を「彦九郎」といいます。蒲生君平、林子平らとともに「寛政の三奇人(傑出した人物)」と呼ばれた、江戸時代中頃の勤皇思想家です。

先駆的な政治理念を抱いた行動と実践は、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛らをはじめとする幕末の志士たちに大きな影響を与えました。いわば明治維新を導いた先駆者として位置づけられています。13歳で「太平記」を読破したのをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、全国各地を巡歴しながら4000人を越える著名な人物や広範囲な学者らと交流を持ちました。

独自の勤皇論を説いた他、多年にわたる膨大な旅日記も残しています。京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁してます。その感激を詠った歌は、愛国百人一首にも取り上げられています。

我を我と しろしめすかや すべらぎの 玉のみ声の かかる嬉しさ

その後、尊号一件と呼ばれる事件をきっかけに幕府に警戒され、寛政3年(1791年)には薩摩藩を頼りましたが断られ、豊後国日田では捕縛もされ幕府の監視を受け続け、寛政5年(1793年)筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃しました。享年46歳です。

高山神社の由緒

明治元年(1868年)太田宿本陣の橋本多賀之助が神社造営の建言書を太政官に提出しました。地元大田町や県内外の有志が神社の創建の願いをを政府に出願し、明治11年(1878年)3月、高山彦九郎に正四位が追贈され、社殿創建・社号公称願いが大久保利通内務卿より許可されました。

これに併せて建設資金は、宮内省から8百円、各宮家から2百円、岩倉家その他当時の太田町をはじめ全県からの寄付金3千円により、明治12年(1879年)天神山中腹(現在の社務所地)に落成し、同年11月15日、東京の官弊大社氷川神社宮司を祭主により鎮座祭が挙行されました。

その後、大正14年(1925年)に社殿改築が計画され昭和4年(1929年)に山頂の2町5反の敷地が下賜されたことにより、現代化した神明造の現社殿が完成しました。資金は、皇族や一般の人々からの浄財10万円、昭和7年(1932年)3月14日遷座祭が執り行われました。

旧社殿は太田市別所町の十二所神社の拝殿になっており、境内には彦九郎自筆の和歌が昭和13年(1938年)には社格が県社に指定されました。

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